信ずる者に幸いあれ 2

私自身にはそう大して信仰心があるわけでなく、宗教を行動規範として受け止めている。仏教の五戒や、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の十戒では、殺すな、盗むな、ウソをつくな、と口を揃えて説いている。宗教を持ち出すまでもない社会の基本ルールで、道徳と宗教と法はかなり重なり合っている。法には違反すると罰則があるが、宗教には悔悟による救済の道がある。道徳にはどちらもない。

ウソをつくなと戒めながら、宗教は平気でウソをつく。これは一体どういうわけか。ウソも方便、目的に向かって人びとを導くための壮大な手段であり、これこそ宗教の本領発揮だと私は解釈している。地獄や極楽などあるわけがない。しかし「身を律して、清く正しく美しく生きなさい」と言うより、善行を積めば極楽や天国に行ける、悪行を重ねれば地獄に堕ちるぞ、と教えた方が聞く人の心を捉えやすい。

因果応報や浄土思想は、2500年前、釈迦の当初の時代から唱えられたが、地獄や極楽は10世紀末、源信が「往生要集」で、仮想現実を生々しくまことしやかに描いて広まった。「講釈師、見てきたようなウソをつき」と言いたいところだが、不幸から逃れたい、幸せになりたいと願う人びとを本気にさせた。

疫病、飢饉、天災、貧困、盗賊、やがて内乱。累々たる死体が、路上に打ち捨てられ、河原に折り重なる。現代では想像も難しい、あえて言えば現在のシリアのように劣悪で、常に命が脅かされる状況下では、救いを求める切実さが今とはまるで違う。おまけにそのころの仏教は、陰陽道、修験道、神道とも相互乗り入れし、宗教と俗信、迷信、呪術の区別もつかない。宮中の女御の気分がいつまでもすぐれず、さては悪霊、生き霊に取り憑かれたかと、高僧を呼んで悪魔祓いの加持祈祷をしてみたが、めでたく懐妊と分かり安堵したという話が源氏物語にも出てくる。

宗教のウソが、人びとを信仰による悟りと救いに導くための方便なら、ウソを丸呑みしてもなんの問題もない。しかし別の目的のために、手段を選ばずウソの世界に引き込む宗教団体もある。ことさらに将来の不安をあおるようなら注意したほうがよいが、カルト教団でなくとも宗教にはもともと終末観がつきものだから、見分けにくい。気がついたときには、というより信じ込んでしまえば気がつく前にイチコロになる。

現代の日本人の宗教心は概して皮相的で、「私は無宗教です」と言いながら、受験の時は合格祈願を、結婚に縁遠いと縁結びの願掛けをする。お詣りすれば気が済む一過性で、本人も必ず成就するとは思っていない。射幸心で宝くじを買うのと似たようなもので、とても信仰とは言えない。寺や神社もよく心得ていて、あれこれのご利益を看板にして並べ立て、客寄せをはばからない。

これでよいのか、これじゃあだめなのか。(つづく)


おまじない

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