コジローの自然死

昨年夏から、糖尿病治療を続けてきた老犬のコジローが死んだ。3日前の朝食を吐いてから、食事を全く摂らなくなり、続いて水も飲まなくなった。だんだん体力を失い、クッションの寝床でじっとうずくまるようになり、たまに排泄で起き上がり、よろけながら場所を探すが、大して出ない。

3日前の夜8時過ぎには、通院していた動物病院に打診したが「時間外なので夜間診療をしている所に行ってください」と紋切り型に断られた。この病院は副院長が丁寧に診てくれていたが、昨年末に辞めてからは、こんな感じの院長が雑な扱いをするようになった。他にここならと思う適当な病院が見つからず、通院を継続していた。

「この時間、検査もできないし」と言い訳されたが、もう検査などする段階でなく、実際、受診したところで施す手はなかっただろう。何もできなくても、診てもらっただけで飼い主は、やるだけの手は尽くしたと気がすむものなのに。

3日間、ようすを見守りながら、これが人間なら、点滴や胃ろうや酸素吸入などの管をたくさん繋いで命の引き延ばしにかかるのだろうと思われた。そばにいてなにもしてやれない無力感はあるが、まもなく16歳という長寿であれば、老衰の死期に臨んで手を加えない自然死が、ムリのないあるべき姿だと教えられる。私の末期(まつご)もそうありたいと思う。

夜になって、しばらく息が荒くなったが、やがて苦しむことなく静かになった。コジロー、コジローと呼んでみたが、反応がない。

この1年あまり、朝晩休まずにインスリンの注射を打つのが私の日課だった。白内障で目も見えず、耳も聞こえず、認知症のようでもあり、食事にも排泄にも世話がかかったが、そうしたすべてが終わった。

ひと晩、仏壇の前に安置し、翌朝、庭の隅に埋めて、お供えをし、念仏を唱えた。

家に初めて連れてきた日、膝の上に乗ってきて撫でてやったこと、ドッグランに行ったひととき、バイクに轢かれそうになった時、いろいろ思い出がある。死が重いのは、すべてが還らないからだ。


おまじない

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一切皆苦、諸行無常、諸法無我、涅槃寂静